層雲峡
マウントビュー
ホテル

北海道の屋根とも言われる大雪山。マウントビューホテルは層雲峡温泉街の入口に位置する、癒しと寛ぎを併せ持つ山荘リゾートホテルです。

層雲峡の偉人達 2

2016年9月28日

 

     

    永山岳(標高2,046m)は温泉街からロープウエイとペアリフトを利用して上がり、黒岳を越え、お鉢平から北西方向へと進んだ所にあります。山名は明治時代に北海道開拓使に出仕し北海道の開発と産業の発展に大きな業績を残した永山武四郎の名に因んだと言われています。今回は、山の名の由来となったこの偉人を紹介します。

    明治2年(1869) 、開拓使庁(東京)の開拓判官(松浦武四郎)が蝦夷地北海道と改称し、蝦夷の地にも国や郡をしくこととなりました。それにより、現在の旭川一帯は「石狩国 上川郡」とされ、明治5年(1872)札幌開拓使庁開拓判官 岩村通俊の命により、当時未開地であった上川地方が初めて公式に視察されました。

    明治15年(1882)、岩村(会計検査院長)は北京(ほっきょう)設置を明治政府に建議します。西の京(京都)、東の京(東京)、そして北海道には北の京を設置するという構想です。京は現在の東神楽町など神楽地域を中心とする一帯を想定していました。これは、北海道開発を急速に展開させたいとの彼の願いとともに南樺太に進行する対ロシア警備を急ぐべきとの認識があったものと考えられています。明治18年(1885)、岩村(司法大輔)が永山武四郎屯田兵本部長、後の2代目長官)らを連れて近文山(現旭川市郊外)から上川盆地を視察し、再度上川への北京設置を明治政府に建議します。政府は北海道庁を札幌に置き、黒田内閣で岩村は一旦閑職に追いやられますが、翌明治22年(1889)山県有朋内閣では、北京ではなく離宮 (皇室別邸)の形で要所を置くという「上川離宮計画」が閣議決定されました。これが人々の関心を集めて急速に入植者が増大、上川発展の引き金となり、ここから永山の活躍が始まります。

    明治23年(1890)、調査委員が訪れ上川離宮の予定地が現在の旭川市神楽岡公園や上川神社近くに選定されると、あわせて皇室御料地も設定されました。御料地は10552㏊、 離宮造営予定地は33㏊とされました。しかし、その後の札幌・小樽の財界人や第4代北海道庁長官北垣国道の反対により計画は頓挫します。明治44年(1911)、皇太子の北海道行啓の際に離宮予定地をご訪問されましたが御料地の指定は解かれ、大正13年(1924)、離宮予定地であった場所に上川神社が移設されてことは終了します。

    軍事の面においては、ロシアの侵攻に対抗するとともに本道開拓の推進のために農と兵を兼ねた屯田兵制度の設置が望まれていた当時、永山は開拓使に加わり、同僚の開拓使とともに北海道に屯田兵設置を建白しました。明治8年(1875)に開始され明治37年(1904)に解体されるまでの30年間で37の中隊、7337戸の兵家(家族を含め3万9900人余り)が入植した屯田兵は、本道の開拓・発展の礎を築き上げました。

    明治21年(1888)、総理大臣となった黒田清隆はロシアのコサック兵制度について調査していた永山に屯田兵本部長を兼任させ、2代目北海道長官に抜擢します。その後、上川・空知に屯田兵の重点を移し、それまで士族に限られていた屯田兵資格の枠を撤廃すると、兵村は農・商・工に長けた人々によって開拓の模範として急速に成長を遂げてゆきました。その後、層雲峡温泉に目を向けたのも彼らです。同年、永山は札幌農学校に兵学科を設けて兵士の養成を図るとともに上川離宮護衛のために多くの屯田兵を上川地域に招き入れ、今日の旭川の都市機能を発展させました。また、御用林を道内全域に造営、夕張・空知には炭田、札幌にはロシアとの接触に耐えうる人材の育成のためにロシア語研究所を設置することで、本道開発に要する各種資源の確保を彼は次々と行いました。

    明治37年(1904)5月27日、67歳で永眠すると遺志により遺体は上野から札幌に移され軍服姿で豊平墓地に埋葬、後に里塚霊園に移されたそうです。

    どうぞ大雪山層雲峡へお越しください。人と自然との在り方を振り返りながらゆったりと時が流れる癒やしの旅に、当館もお役に立てることができましたら幸いでございます。

                                                                                                                                                                   Nobu

 

参考資料:「よみがえった『永山邸』」(高安正明、共同文化社、1990)

                    「北海道開拓の先覚者達(27)~永山武四郎~」(財界さっぽろON LINE、2014)

上川総合振興局ホームページ(地域政策課 「大雪ものしり百科『自然編』」

皆さん、こんにちは

層雲峡の紅葉・・麓まで到着いたしました!!(・・・といっていいのかな???

まだ、完全とはいかないですが、多分今年は、このまま終わるのではないかな・・と思います。

8月に台風が4回上陸したために、日照時間が少なかったのと気温が上がらなかった為に、例年より少しだけ紅葉のスピードが遅いかな・・とも思います。

しかし、9月に入り、天気の良い日が続き、また日中と夜の寒暖差が激しくなった事で、紅葉の色つきが少しだけ濃くなって参りました。

層雲峡温泉街は、今が見頃ですので、是非、この機会に『日本一早い紅葉』をお楽しみください・・。

そして、紅葉狩りを楽しんだ後は、ゆっくりと温かい温泉と美味しいお食事を、ご堪能ください・・!!

 

9月22日現在の紅葉の様子(ホテル前)

9月22日現在の紅葉の様子(ホテル前)

 

 

 

 

 

 

 

 

9月22日の紅葉の様子

 

 

 

 

9月25日現在の紅葉の様子

9月25日現在の紅葉の様子

 

 

 

 

 

 

 

 

9月25日の紅葉の様子

 

 

 

 

9月26日現在の紅葉の様子

9月26日現在の紅葉の様子

 

 

 

 

 

 

 

9月26日現在の紅葉の様子

 

 

 

 

 

そして、おはるちゃんは思う・・。

『紅葉が終われば、冬の季節になるなぁ・・。今年もまた、タイヤ交換する時期だねぇ・・。』

先日、紅葉が始まりました・・と言ったばかりですが、すでに銀泉台や黒岳山頂付近は紅葉が見頃となっております!!

先月の台風で今年は紅葉は少し遅いのでは・・と予想していたのですが、9月に入り晴れの日が続き、さらに日中と夜の気温差が激しくなり、急激に変化したので、一気に紅葉が進んだものと思われます・・(汗)

しかし、大雪山系の麓である層雲峡温泉はまだ始まったばかりなので、まだ紅葉を楽しめる事ができますよ

その時は、是非『マウントビューホテル』へお越しくださいね

9月22日現在の紅葉の様子(ホテル前)

9月22日現在の紅葉の様子(ホテル前)

 

 

 

 

 

 

 

9月22日現在の紅葉の様子

 

 

 

 

 

 

そして、当ホテルにはご存知『はげわりくん人形』がフロントロビーに大きく飾られていますが・・その「はげわりくん」マグカップ』が出来ました

スーツを着ている「はげわりくん」の色が微妙に違い、風水に習い5色のスーツと着ていますので、是非、おみやげにいかがですか・・??

はげわりくん人形のマグカップ

はげわりくん人形のマグカップ

 

 

 

 

 

 

 

『励ましマグカップ』1個500円

 

 

 

 

テトラグループのゆるキャラ?『はげわり君人形』

テトラグループのゆるキャラ?『はげわり君人形』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『励ましマグカップ』の色の意味

・ピンク:恋愛運・恋愛成就

・赤:愛情運・勝負に勝ちたい

・茶:商売運・仕事を成功させたい

・黄:金運・金運アップ

・青:仕事運・人間関係をよくしたい

 

 

 

そして、おはるちゃんは思う・・。

『そのうち、人形の前で拝む人や賽銭していく人が出るのでは・・・???』

皆さん、今度の連休はどうお過ごしになられるのでしょうか・・・。

先月、北海道は4回の台風が襲来し、地域によっては、大変な被害を受けました。

しかし、皆さんなんとか復興しようと、それぞれの場所で頑張っています・・。

それでも、季節というものは早く、ここ層雲峡では、そろそろ秋のシーズンに入ろうか・・という所です!!

黒岳の山頂付近がようやく、色付き始めたそうですが、今年は例年よりも遅いスピードで始まっています。

それでも、ここ最近の日中と夜の気温差が一段と激しくなってきたので、もしかしたら一気に紅葉が進むかも・・(笑)!!

是非、この機会に、大雪山連峰の『日本一早い紅葉』を見にきてみませんか・・。

その後は、温かい温泉と美味しいお食事をご堪能ください・・。

 

9月15日現在の黒岳

9月15日現在の黒岳

 

 

 

 

 

9月15日現在の黒岳の紅葉の様子

 

 

 

 

 

9月15日現在の黒岳のナナカマド

9月15日現在の黒岳のナナカマド

 

 

 

 

 

9月15日の黒岳にあるナナカマドの様子

 

 

 

 

 

そして、おはるちゃんは思う・・。

『そろそろ、ニュースでは大雪山系の山頂付近が紅葉し始めたらしいけど、麓はまだまだだね・・。』

 

層雲峡の偉人達 1

2016年9月16日

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明治44年(1911)、時の逓信大臣(鉄道院総裁兼務)あてに建白書を上申し、貴重な自然資源を開発の手から守るため国がそれを保護すべきであると説いた人物がいました。かつての愛別村長、太田龍太郎です。彼は「国立公園」という名称を日本で初めてここで用い、後藤新平大臣に「霊山碧水」(現在の層雲峡周辺を指す)の保護を力強く訴えかけました。「土地払い下げの運動も猛烈となって、いわゆる政商・富豪の類いが競い合って土地を入手すべく狂奔している。ゆえに国家百年の大計によって、石狩川上流約十里四方の地域を厳重に保護、取り締まり、いかなる個人・団体にも土地の払い下げは絶対断固禁止せらるるべく嘆願する。」(要約)

彼と後藤が幼なじみであったことも功を奏しますが、同年富士山一帯を国の手で保護するための誓願が日光の人々から帝国議会に提出されたという好機を彼が逃さなかったことが一番の理由と考えられます。この功績により、大雪山は昭和9年(1934)に国立公園の指定を受けます。北海道の中央にあたり北見・天塩・十勝に通ずる道路・鉄道が敷設される日が刻々と近づいていた頃、彼は既にその先の道民の心の安らぎを憂い、我利私欲に流されることのない保護地区の建設を急務と捉えて疑わなかったのです。

一方、地域開発の魁けとなったのが、後の層雲峡温泉の開祖で塩谷水次郎の養子、塩谷忠です。大正元年(1912)、養父水次郎が常呂郡オンネ温泉の国沢歴蔵とともに発見した温泉をもとに、陸軍第七師団司令部(旭川)軍医部の転地療養所建設計画に忠が協力し、旭川町議、区議、後に商工会議所会頭となる荒井初一がそれを援助したことから温泉と道路・電気のインフラ整備がこの地で急速に進められました。しかし、大正11年(1922)の豪雨で石狩川が氾濫し「塩谷温泉」も「国沢温泉」も建物・家財もろとも流されてしまうと、翌年、荒井は塩谷温泉の権利を譲り受け、大正13年(1924)、木造平屋50坪の大旅館を造り上げました。早速、彼は館の宣伝を兼ねて旭川の有力者十数名を馬に乗せ、新築の「層雲閣」に招待したと言われています。また、その翌年には「大雪山調査会」を結成し、会長兼スポンサーとして大雪山の科学的調査研究や高山植物の保護指定、山なみの魅力紹介などに奔走しました。

「層雲峡」の名は、詩人で文筆家の大町桂月によって世の中に広められました。大正10年(1921)、塩谷温泉に宿泊した彼は黒岳・白雲岳・旭岳・松山温泉(現在の天人峡温泉)を和服にわらじという出で立ちで踏破し、雑誌「中央公論」にその登坂記を載せました。登山家でもあった彼は後に「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」という名文句も残しています。

保護と開発、相反するこれらが縦糸と横糸となって織り出す珠玉のタペストリー、それが大雪山であると言えます。太田龍太郎が国家百年の大計として訴えた自然保護思想が脈々と流れ、塩谷、国沢の両氏と荒井初一が私財をなげうってでも人々に伝えようとした奥深き山の魅力や価値が今なお損なわれずに花開いているのです。どうぞ層雲峡へお越しください。人と自然との在り方を振り返りながらゆっくりと時が流れる癒やしの旅に、当館もお役に立てることができましたら幸いでございます。

nobu

参考資料:「大雪山物語」(北海道新聞社、1985)

「大雪山から育まれる文献書誌集 第2集」(東川町、2015)

ウエッブマガジン「カムイミンタラ」(りんゆう観光)

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