層雲峡
マウントビュー
ホテル

北海道の屋根とも言われる大雪山。マウントビューホテルは層雲峡温泉街の入口に位置する、癒しと寛ぎを併せ持つ山荘リゾートホテルです。
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大雪山連峰は夏山シーズン真っ盛りです。黒岳山頂から白雲岳を臨むと残雪の合間に浮かぶ若草のまだら模様がひときわ大雪山の夏を感じさせます。11日山の日、カラフルな山ガール・山ボーイが詰めかけその賑わいも見事でした。

さて、かつて講演の旅の途中、ある歌人がこの地に寄った際に当館近くのメノコ沢に伝わるアイヌ伝説に心ひかれて詠んだ歌が碑に刻まれています。この、大正の世に「世紀の恋」とうらやまれその後「公開絶縁状」で女性の地位を内外に訴えることとなった柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん、伊藤燁子)です。 大正天皇の従妹で伯爵家という華族出身の燁子(あきこ)は13歳で華族女学校(現・学習院女子中等科)に入学、1900年(明治33年)に14歳で子爵の北小路随光とその女中の間に生まれた嗣子、資武(すけたけ)と初めの結婚をします。5年後に離婚。3年後には23歳で東和英和女学校に編入学し、勉学の傍ら佐佐木信綱の竹柏園歌会に入門します。再婚後も彼女は強い孤独感から別荘に文化人を招くことで現実逃避し第一歌集『踏絵』を自費出版します。その装幀と口絵は竹久夢二が担当しました。また、仏の道に心の行き場を求め、信仰心から日蓮に因んで雅号を柳原白蓮と称して創作を始めます。

第二歌集『幻の華』を上梓した頃、彼女の戯曲『指鬘外道』(しまんげどう)の上演の許可をもらいに別府の別荘へと7才年下の東京帝大生がやって来ます。機関紙「解放」の記者で社会運動家の宮崎龍介でした。辛亥革命を支援した浪曲師、宮崎滔天の息子でした。大正9年のことで、当時彼女が詠んだ歌が次です。 吾は知る強き百千(ももち)の恋ゆゑに百千の敵は嬉しきものと 以後、彼らは700通に及ぶ恋文の文通を経て密会し龍介の子を宿した後の1921年(大正10年)10月20日、燁子午前9時30分の特急列車で福岡に帰る伝衛門を東京駅に見送りに行ったまま日本橋の旅館島屋へは戻らず、龍介とともに失踪します。そして、23日の朝刊社会面に人権問題を前面に押し出した伝右衛門宛て絶縁状を公開します。出奔を正当化するために龍介と共に仕掛けたと言われています。白蓮36歳、龍介29歳のことでした。大正12年、結婚し宮崎家に入ると宮内省は華族除籍を発表し、全財産が没収されます。夫龍介が喀血し結核で収入が途絶えると、平民となった彼女はそれまで経験した事のない経済的困窮に直面し、筆一本で一家の生活を支えることになります。しかし、夫伝衛門は姦通罪を提訴するどころか、以後再婚もせず援助の申し入れまでします。彼女は頑なにこれを拒否し1935(昭和10)年には歌誌『ことたま』 を創刊、主宰します。取り巻きに対して「いっぺんは俺が好いちょった女ばい、貴様ら、絶対に手出しは許さん」「もう、こん事件については一切話すな」と、燁子や宮崎家に手を出すこと一切を伝衛門はきっぱりと禁じます。そして、伊藤家に残っていた宝石・貴金属・家具・生活用品を送るも、燁子はこれらを彼に送り返したと言われています。

1945年(昭和20年)8月、長男香織の戦死から「悲母の会」を設立しその後、平和運動に邁進します。そして、湯川秀樹夫人のスミらとともに運動を担い、北海道だけでも後志、札幌、月寒、石狩、旭川、十勝平野、根室、狩勝、北見など全国各地を講演して回ります。彼女が層雲峡を訪れたのは1953年(昭和28年)9月。当時の上川町観光協会が石碑を建立したのはその1年後のことと言われています。

碑は当館から来るまで10分、層雲峡清川の旧清川小学校跡地(国道沿い)に設置されています。

参考文献:白蓮れんれん(1994 林真理子 集英社文庫)、流転の華人柳原白蓮(2014 NHK出版)

nobu

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