層雲峡
マウントビュー
ホテル

北海道の屋根とも言われる大雪山。マウントビューホテルは層雲峡温泉街の入口に位置する、癒しと寛ぎを併せ持つ山荘リゾートホテルです。

層雲峡の偉人達 1

2016年9月16日
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明治44年(1911)、時の逓信大臣(鉄道院総裁兼務)あてに建白書を上申し、貴重な自然資源を開発の手から守るため国がそれを保護すべきであると説いた人物がいました。かつての愛別村長、太田龍太郎です。彼は「国立公園」という名称を日本で初めてここで用い、後藤新平大臣に「霊山碧水」(現在の層雲峡周辺を指す)の保護を力強く訴えかけました。「土地払い下げの運動も猛烈となって、いわゆる政商・富豪の類いが競い合って土地を入手すべく狂奔している。ゆえに国家百年の大計によって、石狩川上流約十里四方の地域を厳重に保護、取り締まり、いかなる個人・団体にも土地の払い下げは絶対断固禁止せらるるべく嘆願する。」(要約)

彼と後藤が幼なじみであったことも功を奏しますが、同年富士山一帯を国の手で保護するための誓願が日光の人々から帝国議会に提出されたという好機を彼が逃さなかったことが一番の理由と考えられます。この功績により、大雪山は昭和9年(1934)に国立公園の指定を受けます。北海道の中央にあたり北見・天塩・十勝に通ずる道路・鉄道が敷設される日が刻々と近づいていた頃、彼は既にその先の道民の心の安らぎを憂い、我利私欲に流されることのない保護地区の建設を急務と捉えて疑わなかったのです。

一方、地域開発の魁けとなったのが、後の層雲峡温泉の開祖で塩谷水次郎の養子、塩谷忠です。大正元年(1912)、養父水次郎が常呂郡オンネ温泉の国沢歴蔵とともに発見した温泉をもとに、陸軍第七師団司令部(旭川)軍医部の転地療養所建設計画に忠が協力し、旭川町議、区議、後に商工会議所会頭となる荒井初一がそれを援助したことから温泉と道路・電気のインフラ整備がこの地で急速に進められました。しかし、大正11年(1922)の豪雨で石狩川が氾濫し「塩谷温泉」も「国沢温泉」も建物・家財もろとも流されてしまうと、翌年、荒井は塩谷温泉の権利を譲り受け、大正13年(1924)、木造平屋50坪の大旅館を造り上げました。早速、彼は館の宣伝を兼ねて旭川の有力者十数名を馬に乗せ、新築の「層雲閣」に招待したと言われています。また、その翌年には「大雪山調査会」を結成し、会長兼スポンサーとして大雪山の科学的調査研究や高山植物の保護指定、山なみの魅力紹介などに奔走しました。

「層雲峡」の名は、詩人で文筆家の大町桂月によって世の中に広められました。大正10年(1921)、塩谷温泉に宿泊した彼は黒岳・白雲岳・旭岳・松山温泉(現在の天人峡温泉)を和服にわらじという出で立ちで踏破し、雑誌「中央公論」にその登坂記を載せました。登山家でもあった彼は後に「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」という名文句も残しています。

保護と開発、相反するこれらが縦糸と横糸となって織り出す珠玉のタペストリー、それが大雪山であると言えます。太田龍太郎が国家百年の大計として訴えた自然保護思想が脈々と流れ、塩谷、国沢の両氏と荒井初一が私財をなげうってでも人々に伝えようとした奥深き山の魅力や価値が今なお損なわれずに花開いているのです。どうぞ層雲峡へお越しください。人と自然との在り方を振り返りながらゆっくりと時が流れる癒やしの旅に、当館もお役に立てることができましたら幸いでございます。

nobu

参考資料:「大雪山物語」(北海道新聞社、1985)

「大雪山から育まれる文献書誌集 第2集」(東川町、2015)

ウエッブマガジン「カムイミンタラ」(りんゆう観光)

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